ピアノ音楽の話です。クラシック音楽を聴く人でピアノ曲が好きな人にとってマウリツィオ・ポリーニは神のような存在です。つい最近の昨年末のことですが、そのポリーニがついにバッハの平均率のアルバムを出しました。これは事件です。
ポリーニはモーツァルトやベートーヴェンの古典派からシューベルト、ショパンなどのロマン派、さらにはシェーンベルグ、ウェーベルン、ストラビンスキーなどの現代音楽まで多くのレパートリーを持っています。緻密、透明、ナイフで切れば血が出るような鋭利感を持った演奏は、現代のピアノ音楽の最高水準といってもいいでしょう。ライブ演奏でも二十年前くらいに聴いたことがありますが、背筋に電流が走るような感覚を持ったことを思い出します。
さて、そのポリーニですが、バッハだけはどうしても録音してくれませんでした。平均率のレコードを出すらしいという噂を聞いたのも数十年前のことと記憶しています。同じく世界最高のピアニストであるアルゲリッチやブレンデルがそれぞれ1枚ずつ素晴らしいバッハのアルバムを出していたからなおさら渇望しました。しかし、それも長年時間が経って忘れていました。そんな中、昨年末ついに平均率第1巻がリリースされたのです。だから事件なのです。
このアルバムの話の前にJ.S.Bachについてです。私個人としては全ての音楽の中で、バッハの音楽は最も聴いていると断言できます。バッハの音楽はカンタータや受難曲などの声楽曲に真髄がありますが、最も聴いているのは多分、器楽曲、特にピアノ曲(本来はチェンバロ曲)です。
これだけでも何十曲もあります。(全部で1000曲以上あるわけだから、まぁ一部ですが)
有名なのはゴールドベルク変奏曲、フランス組曲、イギリス組曲、パルティータ、トッカータなどなど。中でも平均率クラヴィーア曲集第1巻と第2巻は、ピアノ音楽の旧約聖書と言われています。プレリュードとフーガからなり、各調性ごとの全部で48曲から成ります。その見事な構成は荘厳な建築物を思わせます。
今までにもそれこそ星の数ほどのピアニスト(チェンバリスト)が録音しています。
まずは(かなり異端ですが)グレン・グールドを標準として個人的には第1に来ます。その他にも古くはリヒテル、グルダ、そしてジャズ界からキース・ジャレットもしなやかな演奏を聴かせくれます。最近では、カナダの上流ピアニストのアンジェラ・ヒューイットが生き生きとした演奏を聴かせてくれています。昨年、彼女の第2巻だけのコンサートがあって聴いてきました。これを一気にライブで弾き切るのは相当な緊張があったと思います。
バッハの演奏にはいくつかアプローチがあると思います。均整の取れた、あるいは抑制の効いたスタイルがまずあります。シフの演奏がそれに当たるでしょうか。落ち着き安心して音楽に没頭することができます。さらに、どれだけ逸脱するかが演奏者の個性となってきます。グールドの場合は、その極端なテンポ設定やフレージング、左手が雄弁に語りかけ対位法を際立たせるなど、とても異端ではありますが、はまり込むと逆らえない魅力に包まれることになります。
さて、ポリーニのバッハです。最初に聴いたときは、エッ?と思いました。予想や期待と違っていたからです。今まで聴いてきたイメージから抑制された厳格なバッハを想像していました。しかし、それとは全然違っていました。ピアノの能力をフルに発揮した極めてピアニスティックな音楽となっていました。ディナーミク(強弱法)は強烈だし、ペダルも多用しているようで音の余韻が残ります。それに何といっても魅力的なのは、弱音で旋律が歌うところです。バッハのしかも平均率でこんなにも豊かな「歌」が聞こえてきたのは驚きともいっていいことです。ある意味、官能的でさえあります。ポリーニもそろそろ老境(といっては失礼かな)に入るところだと思っていたら、こんなにも生命力あふれるバッハを届けてくれました。ちなみに、途中でうなり声さえ聞こえてきます。別にグールドを真似たわけではないでしょうが、それだけ音楽にのめり込んでいたということでしょう。
ということで、最初のうちは期待と違った違和感が残ったのですが、何度も聴いているうちに音楽そのものの持つ喜びのようなものを感じることができる稀有な1枚だと気がつきました。今では何度でも聴きたくなってしまいます。あっぱれポリーニです。もっとも、こういう音楽さえも許容してしまうバッハの作品の偉大さに改めて脱帽することになるのですが。
名作ライブ 鈴木
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