前回に続き「草枕」です。取り上げる本は、
「草枕変奏曲 -夏目漱石とグレン・グールド-」
(横田庄一郎著、1998)です。
グレン・グールド(1932-1982)は、カナダのピアニストです。
この本は、文学(草枕)と音楽(グールド)を行き来しながら変奏を行なう
という興味深い作りになっています。
初めに、なぜ、グールドなのかという説明が必要でしょう。
グールドは、孤高のピアニストです。
数々のエピソードと共に、今なおたくさんの研究書が世界中で
出版されているという稀有な音楽家でもあります。数々の奇行も
よく語られますが、一番大きなことはライブ演奏を拒否し、後半生は
スタジオにこもり求道僧のように録音されたレコードというメディア
を通してのみ外部のリスナーとつながりを持ったということでしょうか。
ですが、何といっても残された数々のレコードが雄弁に彼の個性を
物語っています。しかも、時代を経てもなお輝きを放っています。
特にバッハが最高峰です。何回聴いても飽きることがありません。
今までに一番聴いた音楽は何か?と訊かれたら、迷わずグールド
と答えることができます。
さて、グールドの話は別の機会にすることにして、草枕です。
グールドは草枕が愛読書でした。日本のファンの間では、その事実は
かなり知られていたことですが、なぜ、日本に直接縁がない西洋人で西洋の
クラシック音楽を演奏するグールドが「草枕」なのか?
この本は、それを様々な視点を通して読み解こうとした意欲的な
本になっています。
グールドファンの筆者は、上記の興味から草枕を読む前にこの本を
読みました。なので、少々違った読み解き方になっているかもしれませんが、
感じたことを書いてみます。
グールドは、何に惹かれたのか。漱石の独白を通して語られる東洋思想
に共感したのではないか、ということです。
特に「非人情」についてです。この言葉の意味は、人情がないということでは
なく、漱石は「自然を写す」という意味で使っていると解釈しましたが、
詩や音楽などの芸術で可能になり、それは西洋のものより東洋のものの
方が適しているというようなことを言っています。
グールドは、このような考え方に共振を起こしたのではないかと思えます。
確かに、グールドのバッハは、とてもエキセントリックなところもあるけど、
聴いているうちに、余計なことは一切そぎ落とされて音楽だけが響いて
いる、というように感じます。
漱石の理想とするところの「非人情」と、グールドが創造した音楽の
目指すところの結果が同じである、ということでしょうか?
しかし、音楽のことを考えてみると他の芸術分野との違いもあるように
思います。
クラシック音楽の場合、まず作曲者が音楽を作り、それを楽譜に
表します。ある意味、その楽譜が作曲者の意図を汲み取る絶対的
な存在になります。演奏家は、残された楽譜から作曲家が表現
したかった音楽を楽器や声で再現し、その結果を我々が物理的な
音として認知するのです。楽譜には、基本的な音高や音価の情報は
明記してありますが、演奏に必要な様々な情報は演奏者の解釈に
委ねられます。そこで演奏家の個性が発揮されるわけです。
グールドも、もちろんその文脈にいます。解釈といったらグールドは
それこそ、とんでもなく早いテンポで弾いたり、スタッカートで音を
刻んだりと、普通ではありえないようなことを平気でやっています。
そういった意味では、オンリーワンの音楽ですが、作曲家の音楽を
「写す」していることになるのでしょうか?あまりに作為的、恣意的
な解釈ならば、きっとそうは感じないでしょう。
しかし、グールドの音楽を聴いていると、いつしかそんなことはどうでも
よくて、ただ鳴り響く音だけを感じている自分に気がつくのです。
つまり、最後に我々の前に立ち現れたものだけが純粋に、「写されて」
いるのです。芸術が行き着いた先は、ジャンルが違っても同じなの
かなと思えます。
草枕の最後で、あることを主人公が見て、成就したと言っていますが、
そのことと、グールドの音楽がつながるのかと思ったりもしましたが、
それは深読みしすぎでしょうか?
少々、音楽の話に傾いてしまいました。
次回は、この本の中で何回も紹介されているグールドが手にした
アラン・ターニーの英訳について書いてみたいと思います。
名作ライブ 鈴木
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